『人民の星』 5271号2面

ダライ・ラマの正体 奴隷主でチベットに君臨

 米欧日帝国主義の支援のもとにダライ・ラマが「チベット騒動」をおこしている。これを考えていくうえで、ダライ・ラマがチベットに支配者として君臨していたころのチベットの状態を見ておく必要がある。ダライ・ラマのチベット騒動のねらいがはっきりするからである。
 チベットは全体が高地(海抜三六〇〇〜四五〇〇b)であり、ラマ僧侶らによる暴動がおこったラサ市にしても海抜四〇〇〇b以上の山にかこまれた谷間にある。チベット人民は、いわば富士山より高いところで生活し、農業をいとなみ、いまでは工業もおこしている。
 ダライ・ラマが最高指導者として君臨していた、まだ人民が解放されるまえのチベットは、抑圧と貧困が支配する土地であった。わずかの林とよごれた水たまり、貧民窟とゴミ、そして犬と人間の死骸のつみかさねられた汚臭の“町”であった。人間だけでなく犬も餓死するという状態であった。ダライ・ラマが反乱をおこす直前の一九五八年ころには、人口三万のラサに七〇〇〇人の乞食がいた。

反抗すればサソリの牢獄で殺す
 そんなラサのどこからも見えるところに有名なポタラ宮がたっている。岩山の下から約二〇〇bの高さでそびえたち、近代的なホテルのようにも見える建物は、一二階とも一三階ともいわれる。中は迷路のように階段と廊下、部屋があり、部屋の数は二〇〇〇にもおよぶという。
 その最上階にダライ・ラマの居室がある。居室は、どの部屋も封建王朝とおなじように壁は極彩色にぬりたてられ、床には極上のじゅうたんがしきつめられ、金、銀、宝石をつかった家具、食器、仏具などがならんでいる。
 一方、宮殿のいちばん下の地下には、牢獄があった。そのなかのある部屋にはサソリが飼ってあり、“罪人”がなげこまれ殺された。“罪人”は、ほとんどが寺院と貴族の支配に反抗した農民たちであった。
 ダライ・ラマ、正式には一四世ダライ・ラマとその家族は、反乱をおこしてインドに逃亡した一九五九年時点でどれだけの財産をもっていたか。荘園が三七、牧場が三〇、農奴六一七〇人、奴隷一〇二人を直接所有していた。そのほか、黄金一六万三二八両、銀九五〇〇万両、宝石二万点以上、それらは金額にして当時の日本円で一四七億円という途方もない額であった。
 チベットははやくからイギリス帝国主義の影響下にあり、一九〇四年にはラサ条約をむすんでイギリスに屈辱的関係をしいられていた。帝国主義とむすびついてチベット人民を支配していたのは、地方政府、寺院、貴族の三大領主であった。

一〇〇万人の農奴と奴隷が解放
 一九四九年、中国は解放され中華人民共和国が成立した。しかし、中国政府は歴史的に中国の地方政府の一つであったチベットを無理に解放することはせず、一九五一年五月にダライ・ラマと一七条の平和協定(「中国・チベット協定」)をむすび、じょじょに民主的改革をすすめることにした。これによってイギリス、アメリカなどの帝国主義勢力はチベットから一掃された。チベット人民はここにきてようやく解放の展望をみいだしたのであった。
 ところがダライ・ラマを頭とする反動農奴主集団は、民主化がすすみ人民に権力がうつることをおそれ、五〇年のころより協定をやぶってあくまでふるい支配を維持しようと策動をつづけた。そして一九五九年三月、ラサを中心にダライ・ラマは反乱をおこした。しかし、ダライ・ラマは人民から孤立しており、二万人の反乱軍は、チベット人民に支持された、わずか一五〇〇の人民解放軍にかんたんにうちやぶられた。
 この斗争の勝利によって発動された一〇〇万のチベットの農奴と奴隷は、農奴主とのあいだにむすばれたあらゆる不法な契約書や高利の借用書を焼きはらい、強制的賦役制度と前世紀的な奴隷制度の鎖をたちきった。封建農奴制の土地所有制度を廃止し、土地や役畜や家を分配し、人間的自由をかちとった。
 チベット人民と人民解放軍によってうちたおされたダライ・ラマはインドに逃亡し、以後イギリス帝国主義、アメリカ帝国主義の手先となって、ふたたびチベットの絶対指導者として君臨する日を夢見、策動をつづけ今日にいたっている。
 現在の中国は、「改革開放」の資本主義路線によって、社会主義的な制度が崩壊し、ふたたび貧富の差が拡大している。アメリカ帝国主義とダライ・ラマはここにつけこんで騒動をおこしたが、かれらの目的はあらたな支配者としてチベット人民のうえに君臨することであり、チベット人民の利益と対立していることは明白である。




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